【中学生時代③】わきがとイジメ

中学生時代

前回(中学生時代②わきがとイジメ)はひきこもって直後の生活について書きました。

今回はひきこもり後、少し回復していく様子についてです。

こころの状態と部屋の状態

引きこもっている間に一生分の涙を流したんじゃないかっていうぐらい、

泣き尽くしました。

部屋の状態は最悪でした。

部屋に手製のカギをつけ、ドアを開けても中が見えないように背の高い大きな本棚を動かしました。風水だったら絶対「凶」です(笑)

昼と夜が逆転していたから、ずーっとカーテンは閉めっぱなしでしたし、プリント・教科書などが散乱していたから・・・風水の「最凶」の方だったかも(笑)

部屋は心を映す鏡ですって、整理整頓の本に書いてありました。これには納得できます。

精神状態が不安定で、この先どうやって生きていけばいいのだろうとか、私が死んだらみんなどう思うんだろうとか考えている人の部屋がキレイなわけないですよね。

たまに、近所で最も高いマンションビルから飛び降りることをイメージすることもありました。キッチンで包丁を持ってみたけど次の行動には移せませんでした。

カミソリで手首を切ろうとしても怖くてできませんでした。死にたいけど死にたくないの繰り返し。

こんな状態だから、とうとう体に異変が起きるようになりました。

体に異変が

それは精神的な腹痛。腹痛なんて誰でも生活していたらありますよね。

私の腹痛は尋常じゃない痛さでした!それが1日に何回も襲ってきました。

あまりの痛さに動けなくなり救急車を呼ぼうか⁉と言われたこともありました。

腹痛は精神的なものだろうと、かかりつけの小さな病院で診断されました。

しかし、痛さが半端じゃないから大きな病院で検査をしてほしいとお願いして人間ドックをいくつかの病院でしましたが、特に大きな異常はなしで拒食症運動不足を注意されました。

運動部で痩せていたのにご飯を少量しか食べないのでさらに痩せてガリガリでした。

身長155㎝、体重37キロ。栄養不足で生理が止まりました。

県内で有名な精神科にも何件か行きましたが、特に気持ちが軽くなることはなく、精神安定剤としてもらっていた薬の効果も感じられずに通わなくなりました。

それに、精神科の先生が機械のように冷たく感じて好きになれなかったのも通わなくなった原因です。

社会人になってからから母に「どの精神科の薬が効かなかったよね」と言うと、『処方されていた薬はただのビタミン剤だったのよ』とサラッと暴露されて驚きました!

ひきこもって半年

ひきこもってから半年経ち、精神の状態も少し落ち着いてきました。

家から一歩も出れなかったのが、庭に出れるようになり、家の周りを歩けるようになり、スーパーに行けるようになり、図書館に行けるようになり・・・。

徐々に行動範囲が広くなっていきました。

一番大変だったのは家から出ることでした。外に出たすぐは常に誰かに見られているような感覚でドキドキしました。

家は田舎の住宅地で人通りは少ないですが、たまにウォーキングや犬の散歩をしている人に出くわすことがあって、こわくてたまりませんでした。

広めの道路の反対側の人でさえこわくてビクビクしていました。

こちらに人が来ているのがわかったら近くの角を曲がったりして、必死に避けました。

車に乗ってどこかに行くときはシートには座らずに、足のスペースに座って外から見えないようにしていました。たまに服を頭にかぶせて顔を隠していました。

・・・ただのヤバい人です(笑)

きっと近所では有名だったでしょうね。

今でも、あの子は何しているかわからないって思われてそうです(笑)

私を連れ出してくれた母

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ひきこもっていた反動のようなものでしょうか。

外に出れるようになると、色んな所に行きたくなりました。私が気に入っていたのは人の少ない海。

車で約40分のところ。

当時、家では大型犬を飼っていました。その犬をつれて弁当を持参して海にいきました。

砂浜で犬を離して一緒に走り回る。ただそれだけ(笑) なにがあんなに楽しかったのか、こころを解放できる唯一の時間だったからかな。

母もギリギリだった

母は週に何度かスーパーで働いていました。

車通勤をしていたので、母が帰ってくると車のエンジンの音でわかっていました。

車が車庫に入った音がしたのに、玄関ドアの音がしません。あれ?確かに帰ってきたはず。家の窓からそっと外を見ると、母がハンドルに顔をうずめていました。

精神が不安定な私が待っている家に帰ってくるのが相当辛かったんだろうな。

おばのサポートのおかげで

おば(母の妹)が車で30分ぐらいのところに住んでいました。

母と妹は仲良しで私が赤ちゃんの頃からお世話になっていました。

私がいじめられてからはおばは母をサポートする形で、週に1回か2回ほど私をお泊りさせてくれしました。

おばには息子が2人。私よりも10歳年下。私は幼いとこと遊ぶことで気が紛れて楽しかった。

お泊りができないときは、おばやいとことFAX文通をしていました。

この頃の私は精神が不安定だったので行動や言動に落ち着きが無かったこともあったはずなのに、嫌な顔一つせずに私を受け入れてくれました。

おばには感謝しかありません。私は親孝行&おば孝行もしないといけませんね(笑)

Aさんに出会って救われた私たち

この頃から勉強をしたい気持ちがわいてきました。

不登校生の指導を専門とするAさんを家庭教師として迎えました。

【Aさんのプロフィール】
隣街に住む50代後半の女性(当時)旦那と子供4人と犬。夫婦で塾を経営。
Aさんは民生委員なので地域で名の知れた人。名が知れていた理由は他にもある。
Aさんの息子がいじめられたときに学校や教育委員会に働きかけた経験から、
教育関係の太いパイプを築いていた。そのパイプを活かしていじめられた家族の
サポートをする活動をする。
性格はとても明るく声がでかい、近所のおばちゃんっと言った感じ。
親しみやすかったのは性格だけでなく、長い間授業を受けていなかった私に対して
基礎の基礎から丁寧に勉強を教えてくれて楽しかった。

私たち家族はAさんと出会ってから、徐々に光が差してきました。

たぶん、この出会いが無かったら私はまだ部屋の中にいたと思うし、もうこの世にいなくなっていたかもしれません。

学習に関しては、Aさんの家で他校の不登校生2~3人と一緒に授業を受け始めました。

まだまだ対人恐怖症は根深くあったので、はじめの頃は2時間の授業でも家に帰るとヘトヘトに疲れていました。

ここでは同じ経験をした子たちと話ができる特別な時間でした。

私以外の子は小学校から学校に行っていない子も多く、勉強はかなり遅れているようでした。

まともに授業が聞けない状態だったので、落ち着いて勉強ができて嬉しかったです。

両親にとっても私が外出することで息抜きになっていたことでしょう。

徐々に変わってきた

徐々に笑うことが増えていき、ご飯を食べれるようになりました。

リビングで過ごす時間も長くなりました。謎の腹痛は相変わらず襲ってきました。

リビングの隣の和室に布団が敷いてくれていたので、腹痛がきたら痛みが治まるまで布団で丸くなっていました。

この頃にはヒーリング系のCDを聞き流したり、ジグソーパズルをしてネガティブなことを考えないようにしていました。