【中学生時代⑥】わきがとイジメ

中学生時代

前回(中学生時代⑤わきがとイジメ)までは近所の方や熱血C先生について書きました。

今回は卒業の最後までをまとめました。

奇跡の1時限

3年生になって1度だけ、しかも1時限だけ授業に出ました。

国語の授業でした。授業中に私を指名しないことが条件で出席しました。

休み時間に不登校室に同じ部活動だった子が迎えに来てくれて、教室に入りました。

きっと1年ぶりに私を見る人やクラスが変わったので初めて私を見る人もいたでしょう。

みんな驚いたはず(笑)みんなの目線がコワくて、授業中もずーっと下を向いていました。

初めて開く真新しいきれいな国語の教科書がなんとも言えなかった。

授業が始まってすぐに帰りたい気持ちをおさえて、とにかく我慢。

授業が終わったら速攻、教室を出て不登校室に戻りました。

これが3年生の最初で最後の教室でした。

簡易の不登校室

いつからだったか、記憶にないですが私が使っていたあの不登校室がなくなりました。

正しくは形が変わって別の場所に移動しました。職員室と校長室の前にある広いスペース。

パーテーションで仕切られた空間ができていました。

もちろん、パーテーション(ただの仕切り)なので天井はなく、上半分がすりガラスのようになっていて誰かが入っているのがわかる状態でした。

それをみて私はショックでした。不登校生をこんな場所に押し込むつもりか。拷問部屋のようでした。

ただでさえ対人に敏感になってしまうのに、この中に入って心が落ち着くとでも思っているのか。

位置的に給食室につながる場所だし職員室に用事のある生徒が頻繁に行き来します。

パーテーションの中から歩く生徒たちが薄っすら見え、笑い声が聞こえて最悪な環境。

学校側の対応は心底あきれました。私は1度も使用しませんでした。

保健室のI先生

この保健室のI先生にはホントにお世話になりました。この先生になら全てを話すことができました。

ワキガとわからずに足臭対策をしていた時も、自由に保健室のベッドを使わせてくれたりいつでも保健室においでと言ってくれました。

不登校室にもよく顔を出してくれ、私が一人で給食を食べることがあれば不登校室で一緒に食べてくれました。

また、不登校室が奥まった部屋だったので、日が差し込みにくく暗いといって保健室で食べたりしました。

忘れもしません、I先生は私が不登校になって迎える誕生日から高校卒業年の誕生日まで、日めくりカレンダーを贈ってくれました。

毎日を楽しく過ごしてほしいという願いだったと思います。

可愛い犬の写真が載ったカレンダーでした。

可愛すぎてめくった紙を捨てられず、今でも大切に保管しています。学校で唯一心を許せた人でした。

塾以外習い事

塾以外では陶芸教室と乗馬教室に通いました。乗馬教室を始めたきっかけは・・・なんだったかな?記憶にないな。

この乗馬教室は長続きしませんでした。

教室に通い始めて5回目で、馬が暴走して止まらなくなりそれがコワくてやめました。(笑)

陶芸教室は車で10分の山奥にありました。

おじさん(先生)と痴ほう症のおばあちゃんが住んでいる小さな家。

その一階が工房になってました。

おじさんは伝統の焼き物をつくって県からの依頼の仕事もこなしていました。教室は大体2~3時間。

私が作りたいものを自由に作らせてくれ、そこでは自由に過ごしました。

おじさんは小型犬をかっていて、その子がホントに可愛かった。

名前はナナちゃん。ナナちゃんは賢くてリード無しでも大丈夫な子だったので、製作に疲れたら気晴らしにナナちゃんと山の中に入って遊びました。

私の相棒でした(笑)

私以外の卒業式

卒業式の練習が始まるころ、担任のC先生から母に卒業式はどうしますかと連絡が来ました。

母から「どうする?」と聞かれたので『出席しない』と答えました。

そして数日後、C先生から「卒業証書授与の際に名前を呼んでいいですか?」と連絡がきました。

あ!名前拒否権があるのんだと知った私は『名前は呼ばないでください』とお願いしました。

そして月日は経っていつだったか、誰かからwakiちゃん卒業式で名前を呼ばれてましたよ。と聞いて衝撃が走りました。

C先生は約束を守ってくれなかったのです。

大人って先生って何なんだよ。ってイラっとしました。

私の卒業式

私はみんなと一緒には式に出ませんでしたが、卒業式が終わって数時間後、個別で卒業式が行われました。

場所は校長室と職員室の前の空きスペース。番長と副番長と私の3人(笑)。

卒業証書を受け取って振り返ると保健室のI先生や他の先生方そして母が拍手をしてくれました。

I先生と母の泣いている姿を見てグッときました。でも、涙は一滴も出ませんでした。

肩の荷が一つおりたような気がしました。

何かから解放されました。気持ちは明るかった。
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C先生の贈る言葉

特別な卒業式を終えて帰ろうとしたら、C先生が最後に教室をのぞきませんか?と言われて、渋々ついて行きました。

教室ってここだったっけ?と記憶が全くありませんでした。

教室に入ると絨毯の埃っぽい香りが鼻につきました。

つらい日々を思い出す嫌なニオイでした。3人で黒板の前に行きました。

黒板には横棒がひいてありました。きっと生徒に送る言葉でも語ったのだろうと思っていたら。

C先生が私に「みんなにこの言葉を贈ったんだよ。」

『逆境を笑え』

この言葉の説明をしてくれたけど・・・記憶にありません(笑)

なんせC先生には心を開いていないので聞く耳を持っていませんでした。

普通だったら感動のシーンだけど全く感動しませんでした。

でも、この言葉は好きです。逆境。まさに今自分が立っている場所が逆境でしょう。

でも、この逆境は笑えない。

私の漢字1字

経験ある方もいると思うのですが、新学期に自分の好きな漢字1字を書いて教室に貼ったりしませんでしたか?

3年生のときに私は自宅でこの字を書きました。

最後に教室を訪れて、贈る言葉を聞いた後、うしろを振り返るとそこには私の書いた字がありました。

「偉」の文字。

不登校生の落ちこぼれの私は少しでも偉くならなくてはっと思いこの字をチョイスしました。

でも、見方を変えると「私は偉い」と主張しているようで傲慢な印象になりますね。

白い紙に大きく書いて紫色で模様を装飾していたので1番目立っていました(笑)その紙からは執念のような怨念のような、何か【念】が出ていました(笑)

今は無きVIP対応の卒アル

色んなことがあったので卒アルを受け取ってから、開くことはありませんでした。

気持ちが落ち着いたころに見ました。クラスごとの集合写真のページ。

自分のクラスを探しました。ありました!そこには丸でかたどった私の顔が!(笑)

亡くなった人のように。集合写真に参加していないので特別枠を設けられていました。

ある意味VIP待遇でした。みんなの顔は小さく写っているのに私の顔はでかでかと(笑)

個人の写真は空白でした。ここは空白なんかーい!てツッコみましたよ。

数年後そのアルバムは捨てました。見返すことは無いと思ったから。

高校生活に入る

私は運よくワキガ臭が強くなる前に休まず学校に行っていたので、卒業に必要な出席日数をギリギリ満たして卒業できました。

一般的な出席日数の約半分しか行きませんでした。

中学卒業後は通信制の高校に通います。この高校は私にちょうど良かった。

友達もできたし先生にも恵まれました。

次回から高校時代を紹介します。

中学生生活を振り返って

中学校時代の話を最後まで読んでくださいまして、ありがとうございました。

苦しいツライと主張してばかりで不愉快に感じた方もいると思います。

この頃は自分のことしか考えられず、自分以外の人のことを考える余裕がありませんでした。

自己中心的な内容で申し訳ないです。

今回文字に起こして、改めてたくさんの人たちが私を救おうと動いてくれたのだと、感謝の思いでいっぱいになりました。

自分のことしか考えれなかったのはホント情けない。

これから、何かの形でみんなさんに恩返しできたらいいなと思います。

色んなことが怒涛のように起こりました。複雑な感情の中で生き抜きました。

必死でした。「よく生きたね、頑張ったね」とこの頃の自分を褒めたいです。